2010年5月30日日曜日

何故、電車の中で化粧をするのか。

世は見た目の時代と言われる。就職も仕事もプライベートまでも見た目が良ければ得をする話があちこちで聞こえてくる。確かに私は見た目で物事の良し悪しを決める所がある。私がそうなので大半の人もそうだろう。こういった事は直感、第一印象と言った言葉で昔からあり、今の情報過多の世であって、いちいち頭で考えるという行為が非効率なので、より一層考える事を好き嫌いの感性に委ねる事が多くなっている。

雨の日、電車に乗車した時の話だ。私が席に腰を下ろした向かい側の席に女性が座ってきた。その女性は左右に座っている人がいるにも関わらず、自分の傘を左右の人を含め脚の後ろ側に傘を指すように床に置いた。そして女性はそこから化粧を始めました。徐々に変貌している様は目を見張る物があり、周りを気にせず自分中心の行動に関心した。この話は良くある話で、「昔はこういう人はいなかった。」、「親の躾が悪い。」、「脳の異常なのでは。」と、様々な人に語られている。

何故、この女性は公の場で人目をはばからず化粧したか考えると、前提として見た目を気にする理由があり、これは当たり前の事である。問題は見た目を作る時間を自宅でなく公の場に持ち込んでいる所だ。それを推測するに背景を考える必要がある。電車に乗車している時間を使い化粧をするという事は、かなり忙しい人か寝坊したかで時間の無い人である。だが公の場で化粧をする理由にはならない。では、それよりもっと奥にある背景を見る必要があるのではないだろうか。その奥の背景は時代の空気だ。世は効率化と叫ばれている。これは様々な情報が溢れ効率化しないとダラダラと時間がかかり、損するとか効率化を押し付けられている。効率原理主義者と言える啓蒙者も沢山いる。どうだろうかこういう効率化を叫ばれている世だからこそ、公の場で化粧をする行為の理由付けになるのでは無いだろうか。だからこの女性が乗車時間に化粧する事は効率化だから正しい事になる。

世は見た目の時代ですが、見た目というのは客観的な事であり、化粧する姿を見られる事は客観的に見た目が悪いし、公の場でそれをやるのは論外だと思う。しかし、世は見た目を求められ、さらに効率化まで求められ、その狭間で公の場を割り切りで捨てる判断をする。それを他人が見て心の中で違うと反発するが状況によりやっても良いと思える循環が巡り巡ってくる。だからこの女性は今の世の被害者という見方ができないだろうか。

私達はモラルが欠けているとか一般的な問題を指摘するのは簡単だ。しかし、その根底にあるのは解らないままだ。例え目に付く問題を「やってはいけない」とか相手に注意する事は必要だと思う。だが、実は世の空気がそうなってしまう原因かもしれないし、また空気が変わればその問題が無くなるかもしれない。そして新たに問題が出てくる可能性もある。結局は何かしらの問題が未来永劫でてくる。だから一般的な対応も必要だが、それが起こる問題の背景を推測する必要があるのではないかと思う。

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