2010年6月1日火曜日

「ドロボウこれより先 進入禁止」看板の意味とは

上野周辺のお寺付近を歩いていたら、「ドロボウこれより先 進入禁止」と書かれた警察署の看板があります。この看板でドロボウが侵入しない効果あるとするなら、全国いたる所に看板があるはずです。しかし、あまり見ません。ドロボウからしてもこれを見て侵入を諦めるのもマヌケな感じがします。警察署は何かしら効果があるから看板を立てているのでしょうが、その効果は発表されていないので分かりません。私はこの看板はなんだろうかと首を撚るばかりで、これは面白看板だとしか思えません。

昔、友達と海辺をドライブしていたら、「赤瀬レストラン」とだけ書かれた看板が立っていました。海辺周辺には建物も無く、先にあるんだろうなと思いそのレストランを小腹が空いたので探したが見つかりません。見落としたと思い。その日は諦めましたが、次訪れても見つかりません。広告看板は存在のアピールの為に立てる訳で、見つからない情報は意味が無いのですが、いつしかその看板は場所を示すアイコンとして「赤瀬レストラン」看板の道を走ろうか?というコミュニケーションで使われました。もしかしたら「赤瀬レストラン」の看板はレストランでは無く別の用途で立てられたのかもしれません。

さて、「ドロボウこれより先 進入禁止」の看板は、ドロボウと警察署ではない側からすれば、とても違和感がありとても効果がでないと感じます。しかし、ドロボウと警察署はこの看板で何かしらの注意を引くものがあるから、この看板があると推測します。じゃないと警察が税金ドロボウになります。そこでこの看板を別の用途と置き換えます。それは昔に私と友達が「赤瀬レストラン」の看板を別の用途で利用した形みたいに警察署とドロボウだけに理解できる用途として置き換えます。警察は裏社会との取引があると聞きます。これが本当かどうかはさておき、それを前提として過程すると何かしらの取引が警察署とドロボウ側(の大元かもしれない)で取引があり、「ドロボウこれより先 進入禁止」の看板が立てられた場所にドロボウは手を出さないという取引があるのでは推測します。そのように見るとこの看板の用途がすっきりします。そして一般人にその取引が解らない事は警察署に取って好都合です。

かなり強引な推測ですが、「ドロボウこれより先 進入禁止」という面白看板の存在の意味を追求すると、書かれている事が期待される訳で、一般人からすると効果なさそうだが、警察署とドロボウから見たら書かれている通りになる可能性もあります。真実は私には分かりません。これは当事者だけに分かるのです。

2010年5月30日日曜日

何故、電車の中で化粧をするのか。

世は見た目の時代と言われる。就職も仕事もプライベートまでも見た目が良ければ得をする話があちこちで聞こえてくる。確かに私は見た目で物事の良し悪しを決める所がある。私がそうなので大半の人もそうだろう。こういった事は直感、第一印象と言った言葉で昔からあり、今の情報過多の世であって、いちいち頭で考えるという行為が非効率なので、より一層考える事を好き嫌いの感性に委ねる事が多くなっている。

雨の日、電車に乗車した時の話だ。私が席に腰を下ろした向かい側の席に女性が座ってきた。その女性は左右に座っている人がいるにも関わらず、自分の傘を左右の人を含め脚の後ろ側に傘を指すように床に置いた。そして女性はそこから化粧を始めました。徐々に変貌している様は目を見張る物があり、周りを気にせず自分中心の行動に関心した。この話は良くある話で、「昔はこういう人はいなかった。」、「親の躾が悪い。」、「脳の異常なのでは。」と、様々な人に語られている。

何故、この女性は公の場で人目をはばからず化粧したか考えると、前提として見た目を気にする理由があり、これは当たり前の事である。問題は見た目を作る時間を自宅でなく公の場に持ち込んでいる所だ。それを推測するに背景を考える必要がある。電車に乗車している時間を使い化粧をするという事は、かなり忙しい人か寝坊したかで時間の無い人である。だが公の場で化粧をする理由にはならない。では、それよりもっと奥にある背景を見る必要があるのではないだろうか。その奥の背景は時代の空気だ。世は効率化と叫ばれている。これは様々な情報が溢れ効率化しないとダラダラと時間がかかり、損するとか効率化を押し付けられている。効率原理主義者と言える啓蒙者も沢山いる。どうだろうかこういう効率化を叫ばれている世だからこそ、公の場で化粧をする行為の理由付けになるのでは無いだろうか。だからこの女性が乗車時間に化粧する事は効率化だから正しい事になる。

世は見た目の時代ですが、見た目というのは客観的な事であり、化粧する姿を見られる事は客観的に見た目が悪いし、公の場でそれをやるのは論外だと思う。しかし、世は見た目を求められ、さらに効率化まで求められ、その狭間で公の場を割り切りで捨てる判断をする。それを他人が見て心の中で違うと反発するが状況によりやっても良いと思える循環が巡り巡ってくる。だからこの女性は今の世の被害者という見方ができないだろうか。

私達はモラルが欠けているとか一般的な問題を指摘するのは簡単だ。しかし、その根底にあるのは解らないままだ。例え目に付く問題を「やってはいけない」とか相手に注意する事は必要だと思う。だが、実は世の空気がそうなってしまう原因かもしれないし、また空気が変わればその問題が無くなるかもしれない。そして新たに問題が出てくる可能性もある。結局は何かしらの問題が未来永劫でてくる。だから一般的な対応も必要だが、それが起こる問題の背景を推測する必要があるのではないかと思う。

2010年5月29日土曜日

ナルシスト道を削除しました。

人を馬鹿にした文章でしたので、削除しました。
心ない文章を申し訳ございませんでした。

2010年5月26日水曜日

お世話になったお客様との食事

この前、昔仕事でお世話になった大変素晴らしい方々と食事をした。
現在凄く大変な状況で、心身ともに倒れる一歩手前かと心配になった。

この大変な状況がいつまで続くか分からない為、余計に重圧がのしかかっており、この状況が終わったら1年近く廃人になると冗談交じりで言っていた。
いくら能力が高くても体を壊したら元も子も無く、頑張れとも言えない自分に情けなくなった。

ただ、この方々と初めて正直な心情が喋れて良かった。
私も心機一転するので、今後大事な付き合いになるなと確信した。
一般論の愚痴は話になりませんが、心情からくるものは伝わる。

今回の件で、どんな辛い状況でも立ち直る方法を思い出した。
それは”希望”を持つことだ。
辛い状況でふらふらになっても希望があれば立ち直れた。

そういえば「夜と霧」という名著があり、話は省くが、
どんな状況でも希望などの精神性を保つ事の重要さが書かれていた。

人は状況により、強くなり弱くにもなる。
今は希望が見いだせない時期かもしれないが、自分にとって何が大事なのかを突き詰めれば見えて来るのでは無いだろうか。
そしてそれが自分の支えになり、どんな状況でもやっていけると私は考えている。
いつかこの時がしょぼい事してたと笑える日が来る事を思い浮かべながら。

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2010年5月24日月曜日

平家の末裔

私の実家は鹿児島県垂水市にあります。
垂水市は字に通り、水に恵まれた土地柄で、水のブランドが多い事から
「水の銀座」と言われ、TVのCMに流れる財宝温泉とか有名だと思います。
また桜島が近くにある事もあり、県内有数の温泉地帯です。
気候が温暖という事もあり、人々は南国特有の陽気さを持っています。
写真を見て頂くように非常にのんびりとした雰囲気ですが、
実はここに平家の末裔が数百年前からひっそりと人里離れた場所に住んでいます。
このような話は全国の至る所で平家の落人伝説として沢山ありますがほとんどが検討違いです。
しかし、ここは第二次世界大戦が終戦を迎えるまで、毎年平家の甲冑を着て平家踊りを行っており、
平家の伝統をひっそりと続けていたそうです。
だが、この伝統も残念ながらGHQから700年の甲冑が没収され今ではその痕跡と伝統は失われています。
*刀は第二次世界大戦中に地元の仲将にお国の為にと渡したそうです。
平安時代末期の1180~1185年の源平合戦に負け南へ南へ下り、
源に見つからぬようにこの土地に定住した平家の武士は、
今を嘆くのか胸を撫で下ろすのか想像を掻き立てられます。

ここの地区名は昔から浦の谷と呼ばれています。
父から聞いたのですが、
平家の末裔が住んでいる所は地名で分かり、場所的に辺境な地で'浦'と付く地名は平家と関わりがある可能性が高いそうです。
今ではここに住んでいる人も少なく、いつしか平家という面影も記憶ととも無くなる可能性があります。
実はこの話は垂水市として郷土記録されていません。
そこは文化としての大事さが希薄なのかもしれませんし、何よりこの話自体を知らないという問題もあるかもしれません。
歴史の片隅に埋れた”その後の話”は、今後この話を知った人達に委ねられていくと思います。

2010年5月23日日曜日

父の存在

私は割と人に気を使っているそうだ。普段そこに意識は無く、そこを指摘され認識した。

何故、人に気を使うのか考えると、人に良く思われたい思いがあり、それを裏返すと人に嫌われたくない思いになる。

だが、人に嫌われたくないという初動はどこから始まったか分からずじまいだった。

最近、実家に帰省したのですが、私が家を大掃除しようと色々と父に聞きながら掃除を進めたら父の機嫌が悪くなっていた。父が認知していない所を多く聞いたせいもあったが、私はそれを感知して、機嫌を良くしようと行動していた。

この時、何故自分が人に気を使うのか(人に嫌われたくない)のルーツがここからだと思った。

私は父を色々な面で尊敬している。尊敬しているからこそ、あまり近寄りたくない反発心がある。微妙な感情ですが、、、微妙というのはこれ以上掘り下げたくない思いである。

私は父にみたくなれないが、私の自己形成で良い悪いも影響下になっている。父という存在は私が作った見えない心の衣装であり、いつかはそれを脱ぐ試練だと思う。